絵・あべ弘士 |
わたしの中学生時代の恩師は、生徒おもいのところも、風貌も、コルチャック先生によく似ています。
中学1、2年生のころは、大変な「問題児」でした。担任の先生にも見放されたころ、「大門のことは、ワシにまかせてくれ」と買って出てくれたのが、植山忠次郎先生でした。
植山先生は、英語の教師で、口やかましいが、とても心の温かい先生でした。
まもなく定年をむかえるお歳でしたが、昼休みには校内をまわって、悪ガキ生徒を見つけては、説教をしていました。生徒のことを心配しすぎるせいか、うすい髪の毛にさらに10円ハゲ(円形脱毛症)をこしらえていたので、あだ名は「はげ忠」でした。
先生は、毎晩のようにわたしの家を訪ねてきて、「うどん食いに行こか」と、ちかくの食堂に連れ出し、きつねうどんを食べさせながら、こんこんと説教をしました。
しかし、説教されたくらいで変わるようなわたしではありません。学校にもあまり行かなくなり、昼間から京都河原町の繁華街をうろうろするようになりました。
ただ、どこかに、植山先生には申しわけない、という気持ちは残っていました。
ある時たまたま学校に行ったら、明日、英語のテストがあるとのこと。家に帰ってから、なんとなく植山先生の顔がうかび、ちょっとだけ勉強してみる気になりました。
「 いつも10点以下だった大門が、37点とった!」…植山先生は、わたしのテストの点数を、学校中に言いふらしました。恥ずかしかったけれど、少しうれしかった。
それで、次のテストはもう少しがんばり60点代、その次はもっとがんばり90点代…そのつど植山先生が喜んで、「あの大門が、」と、全校にふれてまわります。先生の笑顔をみるたび、恩返しをしている気分になりました。
わたしが中学を卒業し、高校に合格した年に、植山先生は教壇を去られました。
先生はいつも、「男はなぁ、意気に感じる心を忘れたらあかへんで」と言っていました。
意味が理解できるようになったのはずいぶん後になってからですが、先生がなぜ定年まで教頭にもならず、一教師にこだわったのか、わかる気がしました。
以来、私の座右の銘は、「意気に感ずる心」です。