2011年10月22日土曜日

ひとりはみんなのために みんなはひとりのために












    先日、ある町を歩いていたら、小学校の玄関に、「ひとりはみんなのために みんなはひとりのために」という「標語」がはりだしてありました。運動会でも近いのでしょうか。チームワークの大切さを、こどもたちにうったえているようでした。

   「標語」の由来は、フランスの作家、アレクサンドル・デュマの「三銃士」のなかで、友情を誓いあうシーンに出てくることばです。その後、集団スポーツや社会運動の標語としても使われるようになってきました。

    何となく、いいことばだな、とおもいながら通り過ぎましたが、しばらくたって、ふと、「標語」には「自分」がない、とかんがえてしまいました。
みんなのためをおもう「ひとり」、ひとりのためをおもう「みんな」はいても、「自分のためをおもう自分」が、どこにもいません。
  
   こどもたちに集団的な標語を唱えさせること自体、あまり好きではありません。 まず、「自分」を大切にして、 「自分」を確立してほしい。そのうえで、利己的ばかりでない「自分」を見いだしてほしいとおもいました。

    いっぽう、リチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」(紀伊国屋書店)は、人間には利己的な遺伝子が組みこまれており、一見、利他的に見える行動も、すべて自分が生き残ることだけをかんがえている遺伝子によって指令された、利己的な行動にすぎないと主張します。
   無償の愛も、仲間の連帯感もぶちこわし。みもふたもない話です。

 
よくよく、利己と利他のちがいについて、考察しなければならないとおもいました。