「本当に この穏やかな海が たくさんの人びとの命をうばったのか」
去年の12月、岩手県宮古市の浄土ヶ浜で、きらきらと輝くしずかな海を眺めながら、そうおもいました。
これだけ人間に酷い結果をもたらした自然というものをどう解釈したらいいのか…。
作家の池澤夏樹さんは、「春を恨んだりはしない」(中央公論新社)のなかで、つぎのように語っています。
“ 自然は人間に対して無関心だ…自然にはいかなる意思もない。…津波があと1メートル下で止まってくれたいたら、あと二十秒遅かったら、と願った人が東北には何万人もいる。何万人もの思いは自然に対しては何の効果も影響力もなく、津波は来た。それが自然の無関心ということだ ”
“ この春、日本ではみんながいくら悲しんでも緑は萌え桜は咲いた。我々は春を恨みはしなかったけれども、何か大事なものの欠けた空疎な春だった。桜を見る視線がどこかうつろだった ”
“ 春を恨んでもいいのだろう。自然を人間の方に力いっぱい引き寄せて、自然の中に人格か神格かを認めて、話し掛けることができる相手として遇する。それが人間のやりかたであり、それによってこそ無情な(情けというものが完全に欠落した)自然と対峙できるのだ。
来年の春、我々はまた桜に話し掛けることができるはずだ、もう春を恨んだりしないと。今年はもう墨染の色ではなくいつもの明るい色で咲いてもいいと ”
自然をどう解釈しても、家族を失った人びとの悲しみが消えるわけではありません。
自然の一部であり、自然と格闘してきた人間は、驕ってはいけないけれど、格闘をつづけるしか、前をむいてすすむしかないのだろうとおもいました。
自然をどう解釈しても、家族を失った人びとの悲しみが消えるわけではありません。
自然の一部であり、自然と格闘してきた人間は、驕ってはいけないけれど、格闘をつづけるしか、前をむいてすすむしかないのだろうとおもいました。