絵 鈴木周作 |
去年、一番うれしかったことは、岩手県一関市に住む、上段(うえんだん)のり子さん(62歳)が息子さんの過労死自殺裁判に勝ったことです。
のり子さんは、1999年3月、女手ひとつで育てあげた息子の勇士(ゆうじ)さん(当時23歳)を突然、失いました。
勇士さんは、請負会社ネクスターからニコンの埼玉県熊谷製作所に派遣され、半導体製造機器の最終検査を担当していました。しかし、深夜交替制勤務など過重労働の結果、うつ病を発症し、自殺にいたります。
突然、熊谷警察署から勇士さん自殺の知らせをうけたのり子さんは、疑問と悲しみがいっきに押しよせるなか、新幹線に飛び乗りました。そのとき、のり子さんはお弁当を二つ買います。いま自分が崩れてはならない、倒れてはならない、新幹線の中で涙をぼろぼろ流しながら、のり子さんはお弁当を二つ、お腹に入れました。
熊谷市にある勇士さんのアパートの部屋はきれいにかたづいており、遺書はなく、かけてあったホワイトボードに、たったひとこと「無駄な時間を過ごした」とだけ記されていました。
息子が、自ら命を絶たなければならないほど追い詰められてしまった理由とは何だったのか。調べていくうち、勇士さんが過労死自殺だった疑いが強まります。のり子さんは、2000年7月、東京地方裁判所にたいし、ネクスターとニコンの2社を被告として、損害賠償を求める訴えをおこしました。過労死の裁判で、請負会社と受け入れ先の企業を相手取って提訴したはじめてのケースでした。上段のり子さんを支援する輪が広がります…。
数年前、出版した拙著「新自由主義の犯罪」に、少しでもお役に立てばとおもい、のり子さんのたたかいを紹介させていただきました。そのときお会いしたのり子さんは、とても気丈で明るい方でした。
のり子さんは当時、偽装請負問題の集会につぎのようなメッセージを送っています(抜粋)。
“ はじめての就職で頑張って働いた結果がこの姿とは、いったいどういうことか。勇士の遺体は、かすかに目をあけ、口も何かをささやくように薄くあいていました。…手が切れそうなほど冷たくなった顔に、私の顔を近づけると勇士の声が聞こえてくるようでした。何を言いたい、何を分かってあげればいい、何をしてあげればいい。 あんまり苦しくて心臓がきりきり痛みました。…いったい何日、放っておかれたのか。…
『偽装請負』労働者は世間からも、当たり前のように見放された存在だったのだということを、息子が亡くなってから嫌というほど知りました。人間は慣れてしまえば、限りなく残酷になります。自分は、差別される側にはいかないものだと、思っています。 …
そんな中で、応援をして下さる方々が増えました。本日の会場に集まって下さっている方々がその中心だったかもしれません。次第に自分たちの素性を公表して闘う偽装請負労働者が出てきました。ニュースで立ち上がったことを知るたびに、画面に向かって涙が出ました。『生きているうちに良かったね』と思うのです…苦しい最中に訴えることは、苦しさも倍増、いえそれ以上、言葉で表せば安っぽくしかならない世界です。
突然、熊谷警察署から勇士さん自殺の知らせをうけたのり子さんは、疑問と悲しみがいっきに押しよせるなか、新幹線に飛び乗りました。そのとき、のり子さんはお弁当を二つ買います。いま自分が崩れてはならない、倒れてはならない、新幹線の中で涙をぼろぼろ流しながら、のり子さんはお弁当を二つ、お腹に入れました。
熊谷市にある勇士さんのアパートの部屋はきれいにかたづいており、遺書はなく、かけてあったホワイトボードに、たったひとこと「無駄な時間を過ごした」とだけ記されていました。
息子が、自ら命を絶たなければならないほど追い詰められてしまった理由とは何だったのか。調べていくうち、勇士さんが過労死自殺だった疑いが強まります。のり子さんは、2000年7月、東京地方裁判所にたいし、ネクスターとニコンの2社を被告として、損害賠償を求める訴えをおこしました。過労死の裁判で、請負会社と受け入れ先の企業を相手取って提訴したはじめてのケースでした。上段のり子さんを支援する輪が広がります…。
数年前、出版した拙著「新自由主義の犯罪」に、少しでもお役に立てばとおもい、のり子さんのたたかいを紹介させていただきました。そのときお会いしたのり子さんは、とても気丈で明るい方でした。
のり子さんは当時、偽装請負問題の集会につぎのようなメッセージを送っています(抜粋)。
“ はじめての就職で頑張って働いた結果がこの姿とは、いったいどういうことか。勇士の遺体は、かすかに目をあけ、口も何かをささやくように薄くあいていました。…手が切れそうなほど冷たくなった顔に、私の顔を近づけると勇士の声が聞こえてくるようでした。何を言いたい、何を分かってあげればいい、何をしてあげればいい。 あんまり苦しくて心臓がきりきり痛みました。…いったい何日、放っておかれたのか。…
『偽装請負』労働者は世間からも、当たり前のように見放された存在だったのだということを、息子が亡くなってから嫌というほど知りました。人間は慣れてしまえば、限りなく残酷になります。自分は、差別される側にはいかないものだと、思っています。 …
そんな中で、応援をして下さる方々が増えました。本日の会場に集まって下さっている方々がその中心だったかもしれません。次第に自分たちの素性を公表して闘う偽装請負労働者が出てきました。ニュースで立ち上がったことを知るたびに、画面に向かって涙が出ました。『生きているうちに良かったね』と思うのです…苦しい最中に訴えることは、苦しさも倍増、いえそれ以上、言葉で表せば安っぽくしかならない世界です。
それでも立ち上がらなければ、現状は変わらない、あれもこれも背負って立ち上がるのです。そのことを見て知って、ほかの方々が気付いてくれます。立ち上がった方々、支援の方々の運動が、まだ分からずに心細い思いをしている仲間に届きますようにと願っています。 ”
13年間の裁判闘争をへて、上段のり子さんは勝訴しました。2011年9月30日、最高裁第二小法廷は、ニコンなど被告側の上告を棄却し、のり子さんの訴えを認めた東京高裁判決を確定しました。