2012年10月31日水曜日

乱読のすすめ70-ナショナリズムは「アホの壁」

 












   先日、盛岡から東京まで約3時間の新幹線車内で読んだのが、石原慎太郎『新・堕落論』と筒井康隆『アホの壁』(どちらも新潮新書)の2冊でした。

   案の定、石原さんの本は、ナショナリズムの化石。最初から最後まで、開いた口がふさがりませんでした。
   いっぽう、かつて作家の田辺聖子さんから愛情をこめて「いちびり」と評された小説家・筒井康隆さんの本は笑いがとまらない。筒井さんにかかると、ナショナリズムは「アホの壁」だそうです。

   












   まず、『新・堕落論』。
   石原さんがこの本でいいたいのは、ようするに、日本人は戦後、アメリカから与えられた「あてがい扶持(ぶち)の平和(憲法9条)」に毒され、物欲、金銭欲など我欲に走り、衰退堕落した。この我欲の泥沼から這い出すためには、子どもに国を思え、父母を思えと刷り込み、若者に組織の中での労役を義務化し鍛える。核保有をすすめ、中国などに武力対抗し、財政再建のための税制改革をすすめれば、国民を啓発し、我欲の抑制淘汰につながる、ということのようです。

 しかし、個人的な興味にもとづく「豪華海外視察」に夫人同伴で多額の都民の血税を使っていた石原さんに、我欲が過ぎると人さまを叱る資格などあるのでしょうか。
   看過できないのは、東日本大震災が我欲に狂った日本人に下された「天罰」だという部分。
   石原さんは、昨年の3・11の直後、東日本大震災を「天罰」だとのべました。しかし批判が一気に高まると、すぐに「被災者、都民、国民の皆様を深く傷つけた」と謝罪し、発言を撤回しました。
   ところが、本書のなかで、また同じような主張を繰り返しています。
   「…しかし戦後から世界では未曽有の長い平和がこの国にだけは続いた結果、人々の物欲への執着はとどまることがなく…ここまで堕ちた民族が大きな罰を受けない訳はないと思います。今回の東日本の大災害も、そう受けとめるべきでしょう」(42~43頁「タンタロスの悲劇」)。
   親・兄弟や子供を失った被災地の人々を目の前にして、同じことばをいえるのか。他者の痛みなど関係なく、自論の展開だけに執着する驕りと無神経さ。人に美徳を説くのは筋違いではないか。
   自分のことを『棚上げ』にして、よくここまで好き勝手にいえるものだ、とおもいました。

2011年3月15日 謝罪会見








 気をとり直しつつ、筒井さんの『アホの壁』をよんでいると、「ナショナリズムはアホの壁」というおもしろい一節がありました。

   「戦争を好む性癖を持つ人はたいへん多い。ここではまず、なぜ自分の戦争好きを殊更に隠そうとしない人が多いのかを考えてみたい。…子供にとっては喧嘩と破壊は日常であり、子供の社会は戦争だと言ってもよい。…玩具を奪い合ったり、お互いに引っ掻いたり噛みついたり…。破壊にしてもそうだ。玩具を壊し、人形の手をもぎとり…。これら破壊の衝動から発する行為はいったん抑制されるが、アホはこの衝動をしばしば噴出させ、喧嘩をする。通常の子供たちはこの衝動を戦争ごっこに向けたり、スポーツに向けたりする。戦争と戦争ごっことスポーツの心理をはっきり区別することは非常に難しい」

   「ところで人間は自己保存や種の保存の本能と同時に、同種既存の遺伝子も持っている。…会社に入るとその会社を愛するようになり、日本に生まれると日本にたいする愛国心が生まれるのである。これが同種既存の本能である。…しかしこれらの本能には弱点があるらしいのだ。過剰反応を起こしやすいという弱点である」

   「…こう考えてみると、同種既存の過剰反応によってアホの壁を乗り越えたら戦争、乗り越えずに良識の範囲内で競うのがスポーツ、ということになりそうだ。戦争が好きという人は、ナショナリズムによる戦争までをスポーツの一種とみなし、わしには愛国心があるからという自己正当化によって、アホの壁を乗り越えたアホなのであろう」