2012年10月24日水曜日

乱読のすすめ68-いじめでまとまる人間社会?















   昨日、福島県からの帰りの新幹線で、精神科医・香山リカさんの最新刊「『独裁』入門」(集英社新書)を読みました。大阪の橋下氏を念頭において、現在の独裁型ヒーロー待望論に警鐘を鳴らす内容ですが、新しい論点はないようにおもいました。長期にわたる閉そく感を打破したいという人びとの苛立ちが独裁者を登場させてしまう…香山さんだけでなく、良識派の人たちがすでに指摘してきたことです。

   私が注目したのは、香山さんが本書で引用している社会学者・野村一夫さんの分析です。

   “ それにしても、よくない状況にいるときに、なぜ人は似た状況にある人たちと連帯しようとしないのか。わずかな違いによって人を区別し、さらには自分よりさらに劣ったり弱い立場にいたりすると思われる人を見つけ出して、攻撃し、さらに排除してしまおうとするのはなぜなのか。この心理を読み解くことが、いまの社会を理解する上ではもっとも重要な鍵(かぎ)になるのではないだろうか。 ”
   “ 『差異』から『差別』が生まれるのではなく、『差別』から『差異』が想定されるのである。そういう意味では、『まず排除ありき』という構造原理が、集団・共同体・社会そのものに内在していて、排除によってまとまっていくというメカニズムが存在すると考えられる。つまり排除による統合である。…これらの現象は、集団内に内在する矛盾が、その内部の少数者に集中して転嫁される結果、少数者が集団の中心から排除され、集団の周縁に追いやられたり、集団暴力の対象となり、それによって集団全体が<浄化>され秩序を回復する、という共通の構図をもっている。 ”

   「排除による統合」…人をいじめることで人びとがまとまる、そんな「構造原理」が人間社会に内在しているとしたら、恐ろしい。たしかに過去の独裁者たちは、人々を分断支配するためにその「原理」を使ったのかもしれません。現在の公務員バッシングや生活保護受給者バッシングにも通じるものがあります。

   しかし歴史をふりかえれば、「排除」ではなく、「連帯」による「統合」をめざす人びとがつねに存在しました。そこにこそ、人間の希望があるとおもうのです。