映画「ソフイーの選択」 |
大澤真幸さんの「夢よりも深い覚醒」(岩波新書)には、映画「ソフィーの選択」(1982年)の話がでてきます。
ポーランド人でレジスタンスの活動家とつながりのあったソフィー(メリル・ストリープ)は、ナチスに逮捕され、二人の子どもとともにアウシュヴィッツの収容所に送られます。
彼女はそこで、ナチスの将校に「二人の子どもにうちどちらか一人だけ生かしてやるから、選べ」と迫られます。選ばれなかった子どもはガス室におくられるのです。
ソフイーが選択を拒否すると、将校は、ならば二人ともガス室に送るといいます。
ソフイーは苦しんだ末、兄の男の子を取り、妹の幼い女の子をナチスに渡します…。胸が引き裂かれるような場面です。二人の子どものうちどちらかを選ぶ、これほど不可能で困難な選択はありません。
大澤さんは、この「ソフイーの選択」を、別のケースで考察します。
「もしもソフィーのもとにあるのが、二人の子どもではなく、一人の子どもと1億円のお金で、強盗がきて、子どもかお金のどちらかをよこせ、と彼女に迫ったとしたらどうであろうか、当然、彼女はお金を強盗に差し出すだろう」
「原発を廃止するか、維持しようかという選択は、煎じつめれば、このケースと同じ形式をもっている。いかに複雑であろうと、原発がわれわれに与える利益は、究極的には、経済的なものである。それに対して、原発を維持し続けることは、命、しかも共同体の命の全体を危険にさらすことであると今やわれわれは理解している。われわれは迷うことなく、子どもの命(原発廃止)の方を取るべきである。…だが実際にはそうならない。どうして、人は、必ずしもこの自明な結論に達しないのか」
大澤さんは、その理由を「未来の他者」にあるとします。つまり、今、目の前にいる子どもの命と1億円との選択を突きつけられたら、誰でも子どもの命を選択するが、子どもがまだ存在せず未来に生まれる誰か(未来の他者)だったとしたらどうか。子どもはまだ「無」であり、直接に何も訴えない。「無」とお金のどちらかを選ぶ、そのような状況になれば、人の気持ちはお金の方に大きく傾いてしまうのではないか…。だとすると、われわれには、お金より、「未来の他者」を選択することは不可能なのか…。いや、「未来の他者は、ここにいるのだ」と、大澤さんは主張します…。
原発ゼロにむけたたたかいは、まだまだこれから。すこし難解ですが、「深い覚醒」を手助けしてくれる本です。