第2次世界大戦中、ナチスの強制収容所で妻を殺され、自らも生死の境をさまよった、ウイーンの精神病理学者ヴィクトール・フランクル。フランクルの『夜と霧』は、世界的なベストセラーとして、いまも読み継がれています。この本のなかで、フランクルは、人間はどんな極限状況に追い込まれても、「生きる意味」をもち続けることが重要であり、それが最後に生死をわける決定的な要因になると述べています。
戦後、フランクルは、「平和な時代にいるのに、生きる目標を見失う」という、新たな精神の問題にも取り組みました。フランクルの講演集『それでも人生にイエスと言う』(春秋社)は、現代人に「裸の実存」にもどるようよびかけます。
「裸の実存」
“ すべてはその人がどういう人間であるかにかかっていることを、私たちは学んだのです。最後の最後まで大切だったのは、その人がどんな人間であるか「だけ」だったのです。なんといっても、そうです! ついこのあいだ起こったどんなにおぞましい出来事の中でも、そして、強制収容所の体験の中でも、その人がどんな人間であるかがやはり問題でありつづけたのです。”
“ バイエルン地方のあるところに強制収容所がありました。そこでは、ナチスの親衛隊員である収容所所長が、ひそかに、自分のポケットから定期的にお金を費やして、近くにあるバイエルンの市場の薬局で、「自分の」囚人のために薬を調達していたのです。 他方、おなじ収容所で、収容所での最年長者、つまり自分自身囚人である人間が、囚人仲間をぞっとするような仕方で虐待していたのです。つまり、まさしく、人間にかかっていたのです。最後の最後まで問題でありつづけたのは、人間でした。「裸」の人間でした。 ”
“ この数年間に、すべてのものが人間から抜け落ちていきました。金も、権力も、名声もです。もはや何ものも確かではなくなりました。人生も、健康も、幸福もです。すべてが疑わしいものになりました。虚栄も、野心も、縁故もです。 すべてが裸の実存に還元されました。苦痛に焼き尽くされて、本質的でないものはすべて溶け去りました。人間は溶けだされて一つになり、その正体をあらわしました。 ”
“ それはつぎのどちらかでした。 ある場合には、その正体は、大衆のなかのひとりでした。つまり本来の人間では全然ありませんでした。つまりじっさい、どこの誰でもない人間でした。匿名の人間、名もない「もの」、たとえば囚人番号でした。 人間は今となってはもうそういう「もの」でしかなかったのです。 ”
“ でも、ある場合には、人間は、溶融されてその本来の自己にもどったのです。それでは、やはりまだ決断というようなものの余地があったのでしょうか。そうだとしても、不思議ではありません。人間はありのままの実存に連れ戻されたのですが、この「実存」とは、まさしく決断にほかならないからです。
”