ドヴォルザークの名曲に「わが母の教え給いし歌」があります。
ジプシー歌曲の旋律を基調にした、どこか哀しくて、うつくしい曲です。この曲には、ボヘミアの詩人アドルフ・ヘオドゥークの詩をドヴォルザークがドイツ語に訳した歌詞がついています。
日本語では…(堀内敬三訳)
" 母が私にこの歌を教えてくれた 昔の日 母は涙を浮かべていた
今は私がこの歌を 子供に教えるときとなり 教える私の目から涙があふれ落ちる "
母のことを人に語ることはあまりなかったのですが、しんぶん赤旗の要請ではじめて書いたのが、「母の日特集―参院選候補・母を語る」でした。
「弱い人の味方やね」(しんぶん赤旗・2010年5月8日付より)
母は女手ひとつで、四人の男の子を育てあげました。昼間は京都西九条のスーパーでパート、夜は先斗町(ぽんとちょう)の料亭で仲居として働きました。 母が帰ってくるのは、いつも私が眠ってからでした。
小学三年生の頃でしょうか。
末っ子で甘えん坊の私は、母に会いたくて、夕暮れ時の鴨川ぞいを一時間ほど歩いて、母の働いている料亭の前まで行きました。
私を見つけると母は表に出てきて、「よく来たね」と笑って頭をなで、「早くお帰り」と電車賃を握らせました。
私が「一緒に帰ろう」というと、つよく抱きしめてくれました。そんなことが何度かありましたが、母は一度も私を叱りませんでした。
母のおかげで息子たちは大学に入り、社会人になりました。
あるとき母は、大企業に就職した兄たちより、共産党の活動をしている私のことをほめてくれました。赤旗日曜版を見ながら、「みきしは弱い人の味方やね」といいました。
これから楽をさせてあげようと思った矢先に、母は六五歳で亡くなりました。子供のためだけに生きた人生でした。
自分がなぜ共産党に入ったのかを思うとき、身を削って働いた母の姿が浮かびます。社会が、政治が、母のような女性をもっと助けてあげてほしかった。そういう政治にしなければと思いました。
今でも、夕暮れの街を歩いていると、ふと母と会うためどこかに向かっているような気がすることがあります。今度は私がつよく抱きしめてあげようと思いながら。